『生まれつき歌が好きだった』

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毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方のうち
今日は②で、うまれつき歌が好きだったことを書いておきます。

 私が歌が好きなのは父の血を引いていると思う。母はいわゆる音痴だったし飲んで歌って騒ぐタイプではなかった。父は民謡を習っていたらしくコンテストに出たとき三橋美智也が審査員だったといっていた。このあたりの話も聞いておけばよかった。

 流行りの歌謡曲で最初の記憶は、岡春夫と思っていたら岡本敦郎の“高原列車は行く”“白い花の咲くころ”、藤山一郎の“青い山脈”あたりだ。雪解けのころ金平様の回廊で川端部落のお姉さんたちと遊んでいた記憶と重なる。小学校の2年かそこらだったから昭和20年代の後半である。
 小学校3年か4年のとき我が家にもラジオが入って、春日八郎のヒットソング、題名歌詞、思いだせない、がかかるとそれこそ一生懸命にラジオに耳を寄せて鉛筆を握りしめて歌詞をヒアリングして書きとめようとした。全部が書き出せるには何回かかかった。歌詞の意味は完全にはわからなかった。三橋美智也も好きだった。“お富さん” “別れの一本杉” “哀愁列車” “夕焼けとんび”などなど。夕焼けトンビの歌詞そのものの風景があった。
時は過ぎて、美空ひばり、雪村いづみ、江利チエミの3人娘の時代から、ザ・ピーナッツへ。グループ・サウンズ~のころはBGMな感じでそれほど入れ込んで聴くことはなかった。

 そうそうそのころ日本にもフォーク・ソング・ブームが来たのだ。1960年代後半のことだ。高石ともや、岡林信康、中川五郎、知人の事務所では吉田拓郎のアルバム“古い船を動かせるのは古い水夫じゃないだろう”を扱っていた。岡林信康のアルバムは2枚くらい買って聴きこんだ。“私達の望むものは” “自由への長い旅”などなど。友達がフォークソング・フェスティバルをやって友部正人がゲスト出演で山形に来た。

 ほしくてたまらなかったレコード・プレーヤーが家に来ると始めて買ったのは、Peter Poul and Maryの“Puff”で、ウッディ・ガスリーのメモリアル・コンサートのアルバムも買った。
 その前のこと、1963年4月に(今検索して調べた)“9500万人のポピュラー・リクエスト”が始まった。毎週齧りついて聞いていた、DJは小島正雄。“悲しき雨音”が一位を半年くらいキープしたと思う。リトル・スティービーという天才少年が“フィンガー・ティップス”の大ヒットを飛ばしています、と紹介があった。スティービー・ワンダーである。
 東京の高崎一郎のヒット・パレード番組も評判で、聞き取ろうとしたけれど雑音ばかりで難しかった。でも全国をカバーしている“9500万人の・・”よりも動きが早かった。

1960年代の後半のNHK-FMでは、芦原英了さんのシャンソンをはじめとして、カンツオーネの時間もあり、大好きな映画音楽の時間が毎週最大1時間45分あったこともある。リクエストして二回くらい“山形の荒木しう子さん”と名前を呼ばれてうれしかった!映画音楽のドーナツ盤のサントラ盤沢山集めていたのだけれどどこかにやってしまった。若気の至りである。もうひとつ確か石田一郎?がDJのリクエスト・アワー?だったと思う、があり、どれもこれも全部殆ど欠かさず聞きまくっていた。

1970年頃すごく好きだったのは森進一と浅川マキで浅川マキは山形と吉祥寺の曼荼羅のオープニング・コンサートの一つで見た。あ、越路吹雪も山形で確か二回見ることができた。
 ビートルズの初体験は、東芝のステレオの宣伝の “Let It Be”で、なんとなくうるさい流行の音楽とかの先入観を打破された。

 1971 年の11月の末に山形にあったミニ・シアターで“Woodstock”と“Let It Be”の二本立てを見て文字通り口がきけなくなって(何回も書きました)東京に出て、Carole Kingの“Tapestry”などをチラ聞きしながら、
1975年ウェスト・コースト帰りのキヨシとタシが持ち帰った大量の音楽に接して私の音楽の好みは一変するのであった。
さて、 明日20日の夕方は、ピーター・バラカンさんが今年も帯広に来て下さるので出かけて来ます。

近くの公園で木の実に音楽を感じて撮りました。