『東京は中央線』

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毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方
の内、今日は②で第二の故郷、東京の中央線時代のことを書いておきます。

★ 私の故郷は、三つある。生まれ故郷の山形の大石田、二番目が東京の中央線、三番目が信州の清水平である。

中央線沿いで今に続くなかまたち、BROTHERS and SISTERSと出会ったのだ。東京の中央線では国分寺あたりになると「今日は東京に行ってくる」というのだった。東京にいたときは殆ど中央線沿いで都心部にはあまり行ったことがない。

 1971年の11月の末、ミニシアターで“WOODSTOCK”と“LET IT BE”の二本立てを見て文字通り口がきけなくなった一日か二日後、山形を後にして、ここにいけばなんとでもなるだろうと当時高田馬場にあった山岸会の案内所にまず行った。
 そこで教えてもらって吉祥寺の土方コミューンに一か月いて、工事現場のガン吹き職人の手伝いに井の頭線の浜田山に通った。東京は毎日晴れていて毎日富士山が見えるのに感動して二度と日本海側には住まないと決めた。水道通りを歩いて帰って来ると、空気が乾いていて薄い靴下一枚のかかとが割れた。
 1972年新年 山岸会に集まった何人かで家を一間借りたので荻窪に移った。この出入り自由の家で何人もの友達と出会った。家は“夜迷亭”と名付けられハチャメチャだった。今の若い人ならもっと賢くマネジメントするだろう。当時吉祥寺にいたあぱっちのアパートに『名前のない新聞』発行の手伝いにいったこともある。途中夏に京都まで旅に出て戻って年を越す前に調布の布田に移った。ここに約半年いた。
 1973年大家さんが壊すので引っ越すことになり、夏に再び京都に行き長崎まで足を延ばしたのはこの時だったと思う。秋に関東に帰って佐藤工務店の工事現場のあった埼玉の飯能に九月から年明けまでいて、多摩ニュータウンの友達のお産手伝いをする予定だったのがなかなか生まれず、山形に帰って約束していた親戚筋のおばあちゃんのお手伝いに4か月もいただろうか、そのあと結城登美雄さん(地元学)の左沢のお母さんの実家に行ったことがある。その後自分の実家で断食を一週間やって『地球の上にに生きる』を見ながら楽しく縫い物にいそしんだ。
 その年1974年の8月に山形をあとにして、
(何をやっているかわからない末娘をお父さんと、特にお母さんはどう思っていたのだろうか、どんなにか心配していただろうと今頃になってその胸のうちを思いやってももう遅い。)
山形を後にして向かったのは、長野県の入笠山、ここで “いのちのまつり” なるものがあるという。
 入笠山で濃い出会いをいくつもして、雷赤鴉でしばらく暮らして国分寺へ出た。ひと冬ウロウロしていると、1975年、中央線沿いは春から始まる“MILKY WAY CARAVAN”のうわさで持ちきりになった。バッグパックの要領を教えてもらって、沖縄の読谷村から知床半島まで歩いたりヒッチしたり乗り物に乗ったりして大勢のなかまたちと縦断した。その冬は旭川で越して1976年早く再び国分寺へ、一か月西荻窪の友達の部屋を借りた後駅国立、市は国分寺のアパートに引っ越した。このころ西荻窪に“ほびっと村”ができてご自宅でなさっていた木村先生の指圧教室もそこに移って毎週西荻まで通った。約一年後信州の清水平に移住したのは1977年の4月だった。

 ★ 中央線沿いを中心にして、今も続く多くのなかまたちとシンクロ二シティな出会いがあったのだ。この出会いを何と呼べばいいのだろう? で、私は何をしていたのかというと、生計はフリーター、工事現場の掃除、美術モデルなどでやりくりして、自分がなにをしたいのかがわからない、をやっていたようなものであった。今ならもっと賢く、形が出るように学び形が出るように仕事をする、かもしれない。後悔はしていない。歓喜と混沌のごちゃごちゃの渦中で吹き飛ばされそうになりながら、若さの勢いがあったにせよ、生き延びることができたのだから、大したことないけど。



2,3日間の落ち葉です。今年は落ち葉にも見とれました。