毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
今日は、こどものころの思い出で
『五月節句』のことを記録しておきます。思い出す限り。
★ 100円ショップで買った小さな鯉のぼり、二棹(でいいか?)今年出してきたのは、五月六日だった。
終わってるじゃないか?と言われても内心あまり気にならない。子供のころ県庁所在地に引っ越すまでは、年中行事を中心になりわいが営まれて、その殆どは旧暦、つまり月歴によっていたからである。機械的に、であるが、なに六月五日まで出しておけばよい。
★ 五月節句が近くなると、子供会で朧気川(おぼろげがわ)に笹の葉を取りに行く。はけご{藁で編んだバッグ)を持って。それを十枚(だったと思う)に束ねて、川端部落22軒一軒一軒まわて売りに歩き、子供会の活動費用の足しにするのだ。
★ 母は、五月人形を出す。そう豪華なものはなかった。
五月節句の一番大きな仕事は、笹団子と、何と言っていたのだろう?笹で作った三角の筒にもち米を入れて蒸すの、この二つを母は一日がかりでつくる。
かまどに薪を燃やし飯釜にごんごんお湯を沸かし、その上にセイロをのせる。
もち米を蒸したのはきなこをつけて食べる。もち米を入れる笹の筒(というか、テトラパックのようなもの)は確かスゲ{だったと思う)で結ぶ。この結び方、笹の葉の筒の作り方を、家を離れてから一度教えてもらったことがあったような気がする。でも大人になってからの一回では覚えられなかった。
いつか教えてもらいたい、覚えたい。
★ もう一つの大仕事があった。鯉のぼりを立てることだ。これは父と兄の仕事だ。
天高く上がるように、長い杉の木を立てる。いつもは軒下にしまってある。てっぺんには杉の葉をつける。鯉のぼりの由来はきいたことがあったかもしれない、忘れてしまった。吹き流しは、母の手縫い。建前のときの五色の旗を縫い合わせたものだ。我が家は大工だったから。
この杉の木の棹(でいいのだろうか)は、出稼ぎ先から男手が帰ってくるまで立っていた。杉の葉は赤く変色した。
この棹は、山形市に引っ越すとき、大事にトラックに積み込んで持って来た。しかしもう立てられることはなかったと思う。そして寝かせている間に折れてしまった。
★ 五月節句の準備が終わると、夕方に茅葺屋根にヨモギと菖蒲を挿す。頭には菖蒲のはちまき、風呂は菖蒲湯。魔除けと無病息災を祈る。菖蒲とヨモギの香りに、季節、自然、時、今ここの場所、恵み、畏れを全身で感じ取る。
菖蒲はどこで刈ってきたのだろうか?記憶がはっきりしない。
★ 高度経済成長政策がこの国を席巻するまでは、このような暮らしだった。私の一家ではもう部分的にでも復元継承することは難しいけれど、
高度経済成長以前の暮らしの一端と、未来への新たなる継承の願い止まずの思いを記しておきます。
太平洋戦争体験者に続いて、高度経済成長以前の暮らしを知っている世代も間もなくあの世に引っ越すことになる。
