毎週木曜日は、🔷子供らに寄せて
今日は、私達のお父さん、つまりおじいちゃんのことを話しておきます。
二人とも、じいちゃん、ばあちゃんのことは覚えていないよね。
信州の清水平からこっちに来るとき、一晩か二晩実家に寄った。
ぬいぐるみやいろいろとものをくれた。
ここに引っ越すとき、3.11の直後でパニック状態で、捨ててしまった。一つだけでも残しておけばよかった。捨て過ぎた。
その前兄者が小さい時に帰ったとき、喜んで風呂に入れてくれた。
・父は、今の村山市富並、当時は富並村の生まれで、阿曽家から母のところに婿入りしたのだ。
自転車で山方から大石田まで云ったとき、富並を通った。夢のように美しい村だった。
・父は、姉の夫に弟子入りして建築大工になった。
師匠のなくなるときは、何度も家と師匠の家を往復していた。
思い出すままに書き留めておきます。
・花が好きだった。芙蓉は、父が苗木を背負って来てそれで覚えた。
ダリアの球根を背負って帰って来たこともある。家の裏に大小何種類かのダリアが植えてあった。

・1960年に山形市に引っ越す迄は、家にはほとんどいなくて、上の兄二人と一緒にずっと出稼ぎに出ていた。
下の子どもたち4,5人を食べさせるためである。
・帰ってくる前は、大掃除である。
「ほれ、きれいにしないとごしゃがれっから(怒られるから)」と、母は子どもたちを急かした。
私は父は恐いものだと母に刷り込まれてしまった。損した。
・ 今、久しぶりに思い出したことがある。
小学校に入る前か、一年生のころ、お盆の時だったと思う。
出稼ぎから帰ってくる時のおみやげの、だったかな、漫画の本を父埜おねだりして膝枕で読んでもらっているうちに寝てしまった。数日後同じ漫画をまたおねだりしてまた父の膝枕で寝てしまった。
この膝枕の心地よさ、今も覚えている。心地よさの一生にわたる記憶です。とても大事にしている。
このブログのおかげで思い出しました。
あといくつか今日は書いておきます。
・父が帰ってくるとなると、ビー玉は目に触れないように隠すのだった。子どもが飲みこんだら大変なので、家においてはならないものだったのだ。
サル、という言葉も縁起が悪いので、父の前では禁句だった。
・上の姉は、父に怒られて雪の中にほおりだされていた。私は、そういえば怒られた覚えがない。
・フリーランスの大工だった父、一体どうやって仕事をゲットしていたのだろうか?
・ (世間、人間というものは)生き馬の目を抜く、といってたな。
・歴史的建造物の大石田小学校と、斎藤茂吉が大石田に疎開していたときに済んだ??庵には、棟梁のひとりとして記されている。
名前は、荒木新吾です。明治39年1月11日生まれ、92か、3で天国に返った。
・よく夫婦喧嘩をしていた。一度父は土間との間の障子を約4枚、踏んだり蹴ったりしてぶち壊した。
弟と二人、震えて見ていた。
隣の引田さんが、まあまあと仲裁に来てくれた、声を聞き付けて。そんな時代だった。
寝て起きると、父はかんなをかけて障子を治していた。かんなくずが回りに散らばっていた。
(我が家にはいつもかんなくずがあった)
父は建築大工の前に、建具も習ったのでお手のものだっのだ。
母は囲炉裏で、たしかさつまいもを煮ていて、食うか?と私にきいた。
私は、『子どもの前では、絶対に夫婦喧嘩をしない!』と固く心に決めた。
喧嘩の原因はすべてお前たちのことだ、と母が言ってたな。
・ でも、父は母に手をあげることはなく、出されたご飯に文句をつけることもなかった。
我が家では、女のくせに、という言葉を、私は聞いたことがない。
そろそろ今日は終わりです。
家にいてやりたい放題だったころは、
父を尊敬などできるものではなく、うざい、ださい、トンチンカン、偏屈、アホらしいと、一顧だにしなかったものだ。
ある時、美輪明宏さんともう一方(名前度忘れ)の番組を見ていたとき、ふっと、
今は亡き父と母が語らなかったこと、言葉にならなかったことがどれくらいあったのだろうか?
とこみあげて来るものがあった。
今では、ありがとうと、父直筆の荷札と封筒をお守りにと財布に入れている。
歌が好きで民謡コンテストに出たとき、三橋美智也が審査員だったと言っていた。
建前のとき飾る建前用の絵も描いたそうだ。大石田の家の壁にあったと思う。
大石田に行くことがあったら、町長の健一くんに、当時の建前の絵のこともきいてみよう。

